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ナガ族の雄叫び
地理
 ナガ族の大多数はインド北西部のナガランド州、マニプール州、アルナチャル・プラデシ州に定住しており国境を越えたミャンマ―に定住しているのはインド川に比べれば少数で約10万人と言われ ミャンマ―側で定住している場所はサガイン管区の西側、北はパトカイ山脈から南はThaungdyat周辺、西はインド国境、東はチンドウィン川までです。
民族
 ナガ族の民俗学的アイデンティティーは複雑でハッキリしないと言われ文献によっても若干違ってますが人種的にはモンゴロイドの特徴を示しチベット・ビルマ語族、チベット・ビルマ語族に属します。 ミャンマ―のナガ族について書かれた文献は英文で書かれた物が多いのですが何冊か読んでも余り整合性が見られず戸惑います。 ある本には名前が書かれているナガ族が別の本には出ていないとか、昔の文献に名前が出ていて最近の文献に出ていないとか同じ頃に書かれた文献でもナガ族の種類の分け方が違っていたり等、大雑把に言うと文献によって異なる感じがします。 あるイギリス人が書いた文献にはナガ族はチン族ではなくカチン族に関係がある旨の記述がありましたが、ある文献ではクキ・チン族が周辺の民族の中で最もナガと近似性を持つと書かれてます。 以前、ヤンゴンでインド・アッサムのナガ族の踊りとドラムの公演があって見た事がありましたが、あのナガ族はどうみてもミャンマーで言うチン族にしか見えませんでした。ミャンマ―のナガ族とは違うように見えました。
農業
 焼畑農業はナガ族に広く行われており作物は米、キビ、とうもろこし、タロ芋等が主で場所に依っては段々畑でタロ芋や水稲栽培が行われています。
社会
 ナガ族での重要な社会的単位は血統、氏族、年齢層による集団でかつてナガ族は村を要塞化して住んでいたそうですが現在、ミャンマー側でそういう村は外国人が行ける地域では確認されてません。 チンドウィン川の西岸沿いにはナガ族の村が散在してますがほとんどがビルマ化し公務員になったりポーターをしたり商売をしているものもおり様々ですが中にはインド側で教育を受けたナガ族で構成されてる村もあります。彼らは沈香、伽羅等をインド側に持っていって売ったりしており国境は余り関係無いようです。 しかし新年祭に参加したナガ族に尋ねると以前は頻繁にインド側に行っていたが今は以前ほどは行かなくなってると言う話しでした。

アニミズムの村にて
首狩り
 首狩りの風習はミャンマ―政府の指導のもと、基本的には現在は無くなった事になっています。 詳細を知りたい方はぜひ、ヤンゴンにきて直接、弊社の事務所にお尋ね下さい。 話しますので。首狩りの理由としては文献や文化人類学者の説によると次の3つがあります。

1.復讐
 同じグループの血統、氏族、年齢層による集団が被害を被った場合に起こります。ミャンマ―の文化人類学者に聞いた話しではバチュラーパーティー(独身の男女が相手を探して一晩中楽しむ祭り) の結果、子供を宿した場合、宿した女性がこの人が父親だと指名した男が私ではないと言うと、この男性は女性の血統、氏族から首狩りの対象になるそうです。 この場合、首狩りの対象になるのを避けるには相手を納得させる貢物を出すか、父親であると認めるしかないそうです。

2.五穀豊穣を祈って
 ミャンマ―のもう一つの首狩りで有名なワ族と同じで作物が良く取れる事を祈って首を狩ったり手足を切って木に吊るしたそうです。「RACES OF BURMA」と言う1933年に書かれ1997年に再版された本でナガ族の首狩りについていくつか下記のような記述があります。
 ナガ族は生贄の地を水田に撒きちらし子供が生贄用に買われ手足の切断の恐怖と長引く苦痛をグラント・ブラウン氏が「BURMA RESERCH SOCIETY'S JOURNAL」の1911年6月号に述べている。
 フーコン谷とインドのアッサムのの間に住むナガ族には穀物の収穫を確かにする為に少年か少女の奴隷を捧げる風習があった。
 生贄は山の麓から誘拐され殺し方は各ナガ族に依って槍で突いたり首を切ったりと異なり、又、生贄には普通、薬物を飲ませていたようでバラバラにした手足は村で吹きさらしにした。人肉を食べた習慣の証拠は見られない。

3.個人的な栄誉
 対抗する部落の戦士の首を狩れば一人前に男として勇敢な男として評価される。

 以上のように理由があれば良いのですが50年前にこんな事があったそうです。 レイシという村がインド国境近くの約10キロ離れた部落と戦争になったそうです。 レイシのナガの酋長が気分が悪く昼食をたくさん食べれなかったそうです。 部下のナガ族ンの男がどうしたのかと尋ねると酋長は「お前等があいつ等(戦争している部落)の首を狩ってこないから気分が悪くて飯が喉を通らないんだ」と言ったそうです。 言われた部下のナガ族の男はすぐにインド国境近くの約10キロ離れた戦争をしている部落まで行き女、子供構わず4つの首を狩り、夕食の際に酋長に出したそうです。酋長は安心して夕食はたくさん食べれたとの話しです。この話しはこの酋長の孫さんから聞いたので間違いは無いと思います。こうなると???のどれにも当てはまらない感じがしますね。戦士が女、子供の首を狩るのかな?と言う感じがしますが。

刺青
 男はふんどし一丁、女性は上半身裸のようなアニミズムの村では今でも小さな少女でも刺青を入れてます男性は刺青によって出身の部族や村がわかります。 ビルマ化したりキリスト教化したナガ族の部落ではもう刺青をいれる習慣は無くなっています。今年の新年祭で撮ったPonyo村のナガ族の刺青はこのサイトで見れます。

刺青をしたナガの女性
(アニミズムの村にて)
 かつては黒い犬の毛で編んだ黒い絨毯に長方形の赤い刺繍が有名でしたが今は犬の毛の代りに羊毛(ウール)に変わっています。 貝を毛布に縫い込んでいるのは模様によって着ている人の身分、首を狩った事がある人間かどうか、来ている人間の富等を表していましたが以前は首狩りをした者が着た毛布を誰でも着ており本来の意味は無くなりつつあります。
狩り
 今でも山間部では狩りを行なっており弓や槍で象や虎を狩っています。 今年(2001年)の新年祭で話しを訊いた処、2年前に虎を弓で狩ったナガ族がいました。
 ナガ族は新年祭に歌う歌、戦いに出るとき歌う歌、葬式で歌う歌、畑で刈り入れで歌う歌など歌が非常に豊富です。今年の新年祭で友人のナガ族のお父さんやオジさん達が酔っ払ってから戦争中に日本人の首を当時のナガ族が狩った話しをしてから日本兵の首を狩った歌を皆で焚き火を囲んで歌ってくれました。 新年祭で踊りながら歌う歌は歌と言うより雄叫びのように聞こえます。 一度聞いたら忘れられない歌です。
祭り
 ナガ族の最大の祭りは1月15日の新年祭でKaing Biと呼ばれ現在は国の指導のもと、ナガ族の祭り実行委員会が仕切って場所などを決めています。 食いの指導のもとに行なわれる新年祭は各部落から数名ずつ選ばれて参加をするので何種類ものナガ族を1度に見れる良い機会です。
 今年は6種類のナガ族とクキ・チン族が合計500人以上参加しました。一昨年の新年祭では祭りの前日の夜中に祭りの会場でナガ族の長が酒をこぼしながら何かを祈りそれが終わると若い衆が牛と豚、鶏を槍とナタで殺します。 殺された生贄はそのまま女の人達の処に運ばれ解体、料理され祭りの会場にナガ料理として出されます。 祭りの当日は米から作った白い酒や赤い酒を竹の筒に飲みます。又、この1月15日前後にナガ族の各村で自主的に新年祭が行なわれ、これは子供も参加したほのぼのとした手作りの村の祭りです。 あるナガ族は踊る際に狩った首の髪の毛で作った装飾品を付けて踊ります。 黒髪が多いですが中には茶色の髪も見えます。 作物の種を撒く際にも畑で簡単な儀式を行ないますが宴は各自の家庭でやるので祭と言うほどのものではありません。
 インド側では作物の種を撒く際、収穫の際に祭りがあるとの記述が見られますが現在のミャンマ―側では今の所、私達は確認を取れていません。 アニミズムが盛んだった頃は毎月のように祭りがあったそうですが最近は外国人が行ける範囲では村全体がアニミズムの村は非常に少なくなっており以前は祭りをやっていても現在はやっていないところが多いです。
 インド国境、サラマティ山の西側、フーコン谷等には今も数多くのアニミズムの村があると言われてます。
 新年際の後に、未婚の若い男女があつまり一晩中楽しむ祭りがあると言われてますがナガ族しか参加出来ないので確認できてません。バチュラ―ハウス(MORUNG)は一つの村に複数あり御互いに競い合い昔の日本の若衆部屋のように毎日、そこに若者が出かけ集団生活をして家の中が個室に分かれていて恋人同士が楽しむと言う記述が1971年のミャンマー・エンサイクロぺディアにあります。 文献に依って家の中の個室が無く外で楽しむとか細かい部分は違っていますがバチュラーハウスの存在は確かなようです。 インドのナガ族のMORUNGとは随分、感じが違いますね。
 現在、アニミズムでない村でも新年祭ではMORUNGに集まっています。

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